FC2ブログ
2020/06
≪05  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30   07≫
自粛生活が解除されました。
不慮の死、急死、納得いかない死と出会った時、再び会いたい。生まれ変わっても会いたいと思わないでしょうか?
私は、葬儀を導師として行い、釜の前でお題目を唱えてきました。泣き崩れたり、お棺にしがみついている方々、家族との絆などさまざまな別れに出会いました。再会できないなんて思いたくないというのは、本音です。再会を願いたいし、自分もまた、縁ある人に再び会いたいと願います。
浄土があって欲しい、それじゃないと納得しがたいという部分があるのです。
さらに言うなら、僧侶という業の深い人生、死にかかわり、布施で生き、倫理的に生きるということを自らにすかし、僧侶という職業が悪いと言う事ではなく、過去の因縁を受けて生きているなと感じるのです。
私にとって来世は、ある。だからこそ今を丁寧にいきるそれによって生まれ変わったら生まれ変わった自分に宿題を約束してこの世に生まれます。

読まれた方は、覚悟が足りない。それでよいのか?とお思いになるかたもいるでしょう。でも揺らぎながら、考えながら、嘘なく今を生きるというのは、実は苦しみと向き会うということだと思います。自己の脆弱性を見つめ、問い続ける覚悟を持ち続けることこそが、今の自分の仏教なんだと感じています。
コロナの自粛生活も解除され、少しづつ日常の生活にもどるのでしょう。ただ今回の経験を無駄にせずに人間的にも成長していることをこれからの生活で確認していきたいと思います。

もみじ平成30年春2
あれも欲しい、あの人嫌い、何で私ばかり・・・・
お釈迦さまのお言葉に
「水をくみ出したならば舟は軽やかに進むであろう」
という言葉があります。たとえばね遊園地の池に浮かんでいるような手漕ぎの小舟があるとします。この舟の中に水が
一杯にたまっていると、重くて漕いでもなかなか進んでくれません。ところがね中の水を全てくみ出してしまうと軽やかに
進むことができます。
それと同じように、私たちの心の中が水で一杯になっていると冷たく、重苦しくて仕方がないと思いませんか、水をくみ出して
しまえば、軽やかにのびのびと生きていく事ができますよね。
心の中に何もないのが、いちばん理想的な状態だからなのです。
何もない心のことを「無心」といいます。
この心の中に溜まった水のことを仏教では「煩悩・ぼんのう」と呼んでいます。
人間には百八つの煩悩があると言われ、除夜の鐘を百八つつくのは、この煩悩を退治するためだと言います。
しかし、鐘を突いたぐらいでは、なかなか煩悩は退治できるものではないのです。
数ある「煩悩」の中で「貪りの心」「瞋りの心」「愚痴の心」の三つを人間を一番苦しめる毒薬という意味で『三毒』と呼んでいます。
「貪りの心」とは、自分の好きなものに執着し、欲の為に心が病気になること。
「知者も善者も浮世を見るに色と金には皆迷う」とあるように、色と金に迷う人が一番多いようですが、
「欲を心から離れてみやれ、何がなくとも充分じゃ」となりたいものですね。
「瞋りの心」は、自分の嫌いなものに対して反発したり、腹をたてたりする心をいいます。瞋りの心が、どのくらい自分自身を苦しめるかは、喧嘩をした時の不愉快さを思い出してみればよく分かりますよね。さらに瞋りがこり固まって恨みとなるとかなりの重症です。瞋りは人を損なうことが大きいけれども反省して改めれば比較的退治しやすい煩悩と言われ、瞋りの病に対しては『忍』が治療法であります。『忍』とはひたすら耐え忍ぶといった消極的なことではなく、自分の気に入らないことがあっても腹を立てずに冷静に対処できる積極的な心のことです。
「愚痴の心」は、『道理をわきまえない愚かな心』といいます。
全てのことを自分の思い通りにしたい、自分だけは年を取らずに病気にもならずいつまでも生きていたい、好きな人とだけお付き合いして嫌いな人は顔も見たくない、という我儘な心のことです。この愚痴の心は『無明』とも呼ばれ、迷いの心の根源とされています。
愚痴の心から→貪りの心がおこり、貪りの心があるところには必ず→瞋りの心がある。というように三毒が出そろい、さらに様々な煩悩に枝分かれしていくのです。
愚痴の心に対しては、当然のことですが、『道理をわきまえた明らかな智慧』が処方箋となります。
自分の好き嫌いに合わせて世界が回転している訳ではないから、道理をわきまえて道理に自分を合わせるのです。
霊妙な仏身、このような三毒に代表される心の水を全てくみ出してしまった人が『仏さまのような人』なのです。煩悩の水一滴も残っていない綺麗な心のことを「仏心」といいます。
そして、全ての人が生まれながらに『霊妙なる仏心』を持っているというのがお釈迦さまの一番私たちに伝えたい教えなのです。
軽やかに安らかに生きていきたいものですよね。


20131018_115949_Android.jpg


自粛とは・・・自分から進んで自分の言動を慎むこと。
こんにちは。
どうも人はお天気が良く、心地よい風が吹いていると、外へ出たくなるらしい。
先日の日曜日は前日の荒天候だったせいか、『あれっ、自粛じゃなかったかなぁ・・』と自問自答してしまう程の車が💦
それも他府県ナンバーの高級車"(-""-)"・・・・・

飲食店が閉店しようかと苦渋の選択を強いられている中、ストレス溜まったからと都心から脱出して田舎へ・・・
その行為は人としてどうなの?
コロナが終息しても新たな悩みが増えそうな予感。神仏は、何をお示しになられているのか・・・・

大切な人の為にそして自分の為に行動を考えてください。


20130901_210042_Android.jpeg
菩提梯
日蓮宗大本山 身延山久遠寺にあります石段のお話し。
三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段。
三門を経てここを登れば悟りの境界の涅槃に到達する階梯という、それはそれは、長~い階段があります。
その階段を造ったと言われている方のお話です。
今から300年ほど昔、佐渡島に仁蔵(ニゾウ)という大変親思いの青年がいました。
ある時、仁蔵は年老いた母親の長年の願いをかなえるべく、はるばる佐渡島から身延山へ参ります。
やっとの思いで身延山へ到着し、最後の急坂を、母親を背負い登るのですが、背中の母親がぼそりと一言。
「階段があったらどんなに楽だろうねぇ・・・」
仁蔵さんはいつの日にかここに階段を作ろうと心に誓うのでした。
佐渡に帰った仁蔵さんは、漁と農作業と仕事に明け暮れ、ようやく貯まったお金を持ち、再び身延を目指します。
ところが富士川の船着き場、鰍沢に着くと、そこはまれにみる大飢饉の年で、多くの村人が苦しんでいる姿を目の当たりにします。
心優しい仁蔵さんは、一生懸命貯めたお金を村人に差し上げ、佐渡へと帰ったのでした。
そしてまた半農半漁の生活。
ある日、漁に出た仁蔵さんは、ふと海から山を眺めるとキラキラと輝くものが見えました。
陸に引き返し、山へ登ってみると、なんとそこには金塊があったのです。実はそれが佐渡金山の始まり。
沢山の恩賞を得た仁蔵さんは、再び身延を目指します。
船着きの鰍沢に着くと、以前助けてくれた仁蔵さんを覚えていてくれた人々が待っていました。
身延山へ階段を作りに行く話を聞いた村の人々は、仁蔵さんの夢をかなえるため、一緒に身延へやってきて、階段建設のお手伝いをしたのです。
それが現在に残る、菩提(悟り)への梯(キザハシ)。
菩提梯(ぼだいてい)なのです。287段、高低差104mです。
あまりに急勾配なので登る時は足元を見る為、下を向いて登る人が多いです。
久遠寺にお参りに行かれた時にはこのお話を思い出してください。登る足元もきっと軽くなりますよ。💦

一緒にお参りができると良いですね❢

b0291402_10341531[1] b0291402_10361963[1]





 
六根(眼・耳・鼻・舌・心・身)
もし、自分が長い間あやまちを積み重ねてきた業障が眼に現われて物事の見方が誤っているのならば、一心に大乗の教えを読誦し、最高の教えについて深く思念しなければなりません。
 また、同じく業障が現われた耳は、乱れた聞き方で物事を聞いてしまうので、人間関係の調和を壊す原因となるのです。 また、同じく業障が現われた鼻は、さまざまな香りに接した時に、その快さに対する執着に心が染められてしまい、さまざまな間違った感情を起こします。このような迷いに曇った鼻では、執着に心が染められてしまい、いろいろな煩悩の塵が生じてしまいます。仏の究極の悟りである諸法の実相を観ずるならば、永遠にもろもろの悪業から離れられるので、再び同じ間違いをおかすことはなくなるのです。
 また、同じく業障が現われた舌は、五種類の口による悪業を生み出すもとになります。もし、それを正しく調えたいと欲するのならば、常に努力して他に対する慈悲の行いをなし、仏法の真実かつさまざまに分け隔てをする考え方を捨てなければなりません。
 また、同じく業障が現われた心は、猿のように落ち着きなく、しばらくもじっとしているものではありません。もし、そんな心の悪い性質を抑えて正しい道へ引き入れようと欲するならば、努めて大乗の教えを読誦して、仏の偉大な真理を悟ったおん身と、その救済の力と、何も畏れることなく法を説かれる行為を、一心に念じなければならないのです。
 人間の身は、その人のさまざまなはたらきを司るものですが、それはあたかも塵が風に吹き飛ばされるように周囲の事情に影響されてしまいます。
 このように、人間の中には六根(眼・耳・鼻・舌・心・身)が好き放題に暴れ回っていて制御できない状態なのです。もし、それらの悪を滅して、永久にもろもろの煩悩やわずらいから離れ、いつも真に静寂なる気持ちでおり、安楽にして淡々とした心境に成りたいと欲するならば、教えを読誦すべし。人間を正しい道に導くさまざまな勝れた方法は、大乗の教えによる諸法の実相を思うことによって得られるのです。いま説いた六つの方法が、六根を清浄にする方法と呼べるものなのです。
 一切の業障は、ありもせぬものをあると思う妄想から生み出されるのです。それだから、もし自分の業障を懺悔しようと欲するならば、静かに端座して諸法の実相を深く思念する必要があるのです。
 もろもろの罪は、あたかも霜や露のごとき幻であり、実相を観ずる智慧の日光に照らされれば、たちまち雲散霧消するのです。それゆえに、ただひたすらに実相を観ずることによって、六根を清浄しなければならないのです。

この教えは、仏説観普賢菩薩行法経からです。人間の六根を清浄にしたいものですね。

もみじ平成30年春4




  
大きな屋根はありません。広い境内もありません。ここには、仏さまの慈悲があります。
悲しい事は半分に。嬉しい事は倍に。あなたのお話しお聞きいたします。 どうぞ、お尋ねください。

山里

Author:山里
色々な事に興味を持って不器用だけれど拘わっていきたいなぁ❢

いい塩梅に歳を重ねて

山里

Author:山里
色々な事に興味を持って不器用だけれど拘わっていきたいなぁ❢

写仏・写経を一緒にしませんか?
最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カテゴリ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる